あひる家
ニーハオ!高雄のゲストハウス『あひる家』で~す。
高雄のMRT(地下鉄)西子湾駅2番出口のすぐ近くにLRT(路面電車)の駅があるのですが、
その駅の名前は「哈瑪星(hamasen)」とい言います。
そう。その由来は日本語の「浜線(はません)」から。
日本統治時代、高雄の中心地として最も栄えた場所であるこのエリア一帯を「ha-ma-seng(はましん)」と呼んでおり、
その名残で駅(LRT)の名前が付けられました。
当時、旅館業・運送業・金融業の建物が所狭しと並んでいた町も
残念なことに、1945年の高雄大空襲の際、その建物のほとんどが破壊されてしまいました。
空襲を逃れた一部の建物がが現在も残っていたり、修復され復元されています。
高雄に来たら誰もが訪れる西子湾エリアにありますので、
観光ついでに訪れていただき、当時の高雄の様子を想像してみてください。
「哈瑪星(はません)」とは
高雄最西端のMRT駅「西子湾駅」。西子湾駅2番出口の裏の広場を含む西側を「哈瑪星(はません)」という。
(日本統治時代)鉄道(貨物線)が港(浜)沿いを走っていたことから、当時のこの一帯(新濱町・湊町)を濱線(はません)と呼ばれていた。その名残で漢字を当てはめ「哈瑪星(ha-ma-seng)」となり今に至っている。
あひ郎
「はません」って正式名称じゃなくて通称名なんだね
あひ子
西子湾方面の海に行くとき、「はましん」へ行くっていう言い方は私が小さい頃も普通に使っていたわ。
あひ郎
あひ子って何歳??・・・w
当時の地図を見たい方はこちらから(1937年のところをクリックしてみてください。)
「哈瑪星(はません)」にあった日本統治時代の建物
武德殿(登山街36號)
武德殿
あひ郎
武道の鍛錬をしていたところだね。
あひ子
今でも週末になると、剣道の稽古をしてるわ。
原愛國婦人會館
愛國婦人會館
あひ郎
軍人の援護・支援を目的とした愛国婦人会館の高雄支部。慰安所として使われていた時期もあったんだよね。
あひ子
今は赤十字管轄の児童養護施設になってるわ。
山形屋(臨海三路14號)
山形屋
あひ郎
日本統治時代の1920年代の文具店。文具や本の他、印刷や本の出版などの業務も請け負っていたんだって。
旧三和銀行・・・山形屋の向かい
臨海一路
あひ子
現在の臨海一路は当時金融街と呼ばれていた一帯なの。
あひ子
日本統治時代当時、100mあまりのこの通りに6つもの金融機関あったのよ。
あひ郎
当時あった金融機関のうち、旧三和銀行のみがその面影を現在も残しているんだ。
あひ郎
1921年開業当時は三十四銀行(高雄支店)だったんだ。その後1933年に合併して(旧)三和銀行に名前を変えたんだ。
あひ子
近年改修工事がなされ、今はカフェになっていているのよ。
旧高雄警察署(臨海三路18號)
旧高雄警察署
あひ子
現在は私有地になってるわ。
「明治製菓高雄配給所」(鼓山一路15號)
明治製菓高雄配給所
木造の家の周りにコンクリートの外壁が施されている
貿易商大樓
貿易商大樓
あひ郎
日本統治時代は「春日館」という旅館で、当時この一帯で一番高い建物だったみたいなんだ。
あひ子
戦後は貿易センタービルとして使われていたのよ。
佐佐木商店高雄支店
佐佐木商店
あひ郎
建材などの販売を主に扱っていたいわゆる土建屋さんの支店で現在もキレイな状態の建物。
あひ子
隣の倉庫(木造)には「打狗文史再興會社」という当時の歴史建造物を保管・保存する活動を行っている団体が入っているので(むしろ)そちらを訪れてほしいわ。
一二三亭
一二三亭
あひ子
高級料亭で、舞妓さんがいたらしいの。
代天宮(鼓波街27號)
代天宮
あひ子
1939年の新都市計画に伴い、高雄歴史博物館に遷移されるまで、高雄市役所(1924年)があった場所なのよ。
あひ郎
その後、町役場や学校になったみたいなんだけど、高雄大空襲で破壊されたんだよ。
1949年から代天宮が建設され、1962年に今の形になったの。
あひ郎
2020年2月現在、修復中で中に入れないので注意してね。
打狗第一尋常高等小學校(現在の鼓山國小) (鼓山二路50號)
鼓山國小
あひ子
1913年に現在の鼓山國小の場所に遷移した打狗第一尋常高等小學校。当時は日本人のみが通うことができなかったの。1941年になって初めて台湾人も通うことが許されたのよ。
壽山洞(西子灣隧道)
壽山洞
あひ子
中山大学に抜ける西子灣隧道トンネルね。全長は260メートルあるのよね。
あひ郎
1930年代後半、このトンネルの北側に防空トンネルが造られたんだ。
当初は武器庫として使っていたんだけど、近くの司令部が空爆で壊滅した後はここを司令部として使ったという記録が残っているんだ。
王沃/王定石の邸宅
王沃&王定石の邸宅
あひ子
日本統治時代の高雄の漁民王と呼ばれていた王沃が住んでいた邸宅ね。
あひ郎
実は元々3階建ての建物だったんだけど、空襲で3階部分が破壊されたんだよね…
あひ子
息子の王定石の時代。2・28事件が発生した時、この邸宅を避難所として開放し、多くの市民の命を救ったという高雄人にとって忘れることができない建物なの。
当時の街の様子を知りたい場合はこちらの1927という所をクリックしてください。